2016年12月27日火曜日

クリスマス、それは始まりのとき


 クリスマスを迎えました。
 神の子、イエス・キリストのご誕生を共に祝い、その喜びと感謝を刻むときとしたいと思います。

 この時期は、日本ではすでにお正月の準備に入り、クリスマスは遠い昔の出来事のように思われているようです。しかし教会の暦では、これからがクリスマスを覚えるときとなります。なぜなら、クリスマスの物語は、イエス・キリストが誕生したことで終わるのではなく、誕生した「あと」のことがむしろ記されているからです。

 この一年間、それぞれの歩みには楽しいことや嬉しいこともたくさんあったことでしょう。でも、辛いことや恐ろしいことも世界中で起こりました。聖書はそのような出来事を「暗闇」という言葉で表現しています。いつの時代もそのような「暗闇」という言葉でしか表現できないようなことが起こるのです。

 でも大切なことは、そのような「暗闇」にだけに目を向けることではありません。不安や恐れを感じることだけでもありません。むしろ、その暗闇の中で輝く光があることに目を向けるのです。
 この光とは神の子イエス・キリストのことです。イエス・キリストという光こそが暗闇に勝利していることを、これからのあとのイエス・キリストのご生涯から学び、確認してゆくのです。その意味でクリスマスはお仕舞ではなく、始まりなのです。

 年の瀬となりました。新しい年の皆様の歩みの上に、神様の祝福をお祈りいたします。そしてイエス・キリストという光を求めて、ご一緒に新しい歩みを始めるものでありたいと思います。

 2016.12.27
 日本福音ルーテル教会
 総会議長 立山忠浩
  

2016年12月2日金曜日

クリスマスへの備えのとき

 

 12月に入り、今年もあと1ヶ月足らずとなって来ました。年の瀬を迎え、何かと慌ただしい時節です。

 教会の暦はひと足早く新しい暦へと変わり、アドベント(待降節)という教会暦に入りました。それぞれの教会にはアドベントリース(クランツ)が置かれ、そこには赤いロウソクが立てられていることでしょう。これから日曜日を迎えるごとにそのロウソクに灯をともし、週を重ねるごとにロウソクの灯が増え、12月25日のクリスマスには4本の灯が輝くことになります。

 クリスマスの準備をゆっくりと、大切な時として過ごすのです。そしてクリスマスの喜びの日を迎えるのです。聖書に記されたクリスマスの意味を思い巡らし、なぜイエス・キリストは家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされたのかなど、その意味を考えるのです。そのためにも、少しだけ立ち止まり、慌ただしい日々の時の流れから逃れた時間が必要です。

 ぜひこのアドベントとき、教会の礼拝や諸集会にお出かけください。心を静め、ご一緒にクリスマスを迎える準備をして行きませんか。喜びに満ちたクリスマスをご一緒に迎えられれば幸いです。

 2016年12月
 日本福音ルーテル教会 総会議長 立山忠浩

2016年11月4日金曜日

11月の教会の暦、あれこれ

 


 11月に入り、そろそろ冬支度となって来ました。教会は宗教改革記念日を終え、また新しい歩みを続けています。

 6日には全聖徒主日を迎え、天に召された方々を記念します。この世の生涯を終えようとも、私たちと共にイエス・キリストという木の枝につながれている幸いを覚えるのです。

 13日は多くの教会、幼稚園・保育園で、子どもたちの祝福式が行われることでしょう。6日の全聖徒主日は全世界のキリスト教の伝統や暦に従ったものですが、この時期に子ども祝福式を行うのは日本の伝統行事の七五三に因んだものです。主イエスが子どもたちをこよなく愛し、大切にされたことを日本の教会はこの時期に覚えているのです。
 
 20日は教会の暦では大晦日になり、1年間の終わりを迎えます。教会によっては「すす払い」ならぬ、大掃除を行う教会もあることでしょう。

 そして27日は新しい暦となり、クリスマスを迎えるための準備の期間(アドベント)に入ります。街並みなど周囲ではもう11月からクリスマスツリーを見かけますが、教会はこの日からツリーの灯をともし始め、リースの飾りもお目見えするのです。

 どうぞお近くの教会の礼拝にご遠慮なくご参加ください。いずれの集会、行事にも心より歓迎されることでしょう。

 2016年11月
 日本福音ルーテル教会
 総会議長 立山忠浩
 

2016年10月22日土曜日

宗教改革をご一緒に



 秋も深まって来ました。この季節、特に私たちルーテル教会(ルター派)にとって大切なことが、宗教改革を覚えることです。1517年10月31日、マルティン・ルターによって始まったのが宗教改革でした。

 ただ、日本に暮らす私たちにとっては、「宗教改革が何なのかよく分からない」、「遠いドイツの国で起こったことだから、自分とどんな関係があるのか興味もない」というのが偽らざる思いでしょう。

 「宗教改革」は英語では「リフォメイション」と言いますが、もう少し正確に言うと「リ・フォメイション」です。「リ」とは「再び」とか「新たに」という意味がありますから、フォメイション(構成、枠組み)をもう一度新たにするということになるのです。むしろ「リフォーム」の方が、私たちにはなじみがあるのかも知れません。家をリフォームする。洋服をリフォームする。元もとのものを残しながら、もう一度新しくするのです。きっと人生も同じなのです。

 自分の人生は、自分が今歩んでいる道はこれでいいのか。負の連鎖の人生を変えることはできないのか。だれもが心の中で考えることのある問いです。ルターの問いも同じだったのです。問うだけでなく、自分の人生を「リ・フォメイション」する道を探したのです。そして聖書に、イエス・キリストの教えにたどり着いたのです。
 
 人生のリフォメイション。やや大げさに聞こえるかも知れませんが、自分の人生を見つめ直し、本当の幸いを問うことはとても意義深いことだと思います。

 来年はいよいよ宗教改革500年を迎えます。自分にとってのリフォメイション。今年の宗教改革をご一緒に体験し、宗教改革の500年をみんなで祝う準備ができればと願っています。 
 
 どうぞ教会の礼拝にお越しください。心より歓迎されることでしょう。 

日本福音ルーテル教会
総会議長 立山忠浩
 

2016年9月14日水曜日

日常の人の声からしばし離れて



季節は秋へと向かっています。私の暮らす都南教会の住まいでも、コオロギの奏でる音が大きくなっているように感じます。この虫の音、人によって感じ方は違うようです。

日本人は他国の人たちに比べて、虫の音に感性を働かせる傾向が強いと聞いたことがありますが、でも日本に暮らす人によってもきっと異なることでしょう。耳に響く自然界の音色はそれぞれであり、それで良いのです。

私たちの耳や目、あるいは心に届くものには、自然界の営みから聞こえて来る音の他に「声」があります。人の声、そして神の声がある。でも私たちがいつも聞いているのは人の声であり、私たちの日常に溢れているのは人が作り出した声ばかりです。おびただしい人の声の中で、かき消されてしまっている声、それが「神の声」ではないかと思います。

この「神の声」は聖書を通して、イエス・キリストの教えを通して語られているのです。これは、それぞれの好みで雑音のように聞いてはいけない大切な声なのです。しばし日常の喧騒から離れ、周囲のおびただしい情報の声のボリュームを絞り、この声に耳を傾けようとするならば、きっとあなたのからだを響かせる恵みの声が聞こえて来るに違いありません。

慌ただしい生活から少しばかり離れ、お近くの教会をぜひお訪ねください。「神の声」に耳を傾け、神に賛美と祈りを献げる群れに出会うことでしょう。

2016.9
日本福音ルーテル教会
総会議長
立山忠浩

2016年7月21日木曜日

み言葉を蓄える季節



暑い夏が到来しました。

近年は「暑い」という言葉では十分に表現できないためか、「猛暑」という言葉が使われるようになりました。
いささか迷惑な季節のような感じがありますが、かといって「冷夏」となれば、それはそれで野菜や果物などの生育に悪い影響をもたらすようで、これも喜んでばかりではいられないようです。

極端な暑さは困りますが、自然界の営みから見れば、暑い夏がやはり必要なのでしょう。この日差しの強い時期に太陽の光をたっぷりと浴びて、秋の実の季節を迎えるための備えをしているからです。暑い夏なくして、収穫の秋はないのです。

それは私たちにとっても同じなのです。
教会では「み言葉を蓄える」という言い方をすることがあります。
聖書の言葉、イエス・キリストのみ教えをたっぷりと浴びて、それを自分自身の中で思い巡らし、反すうすることで「み言葉を蓄える」のです。
その蓄えたものがいつしか喜びとなり、生きるべき道を照らし、その道を歩む力となるのです。

お近くの教会をぜひお訪ねください。
「み言葉を蓄える」者たちの群れに、あなたが加えられることを願い、そして歓待してくれることでしょう。

2016.7
日本福音ルーテル教会
総会議長
立山忠浩

2016年5月15日日曜日

言葉の回復


 教会は聖霊降臨日・ペンテコステを迎えました。聖なる霊が使徒たちに注がれ、これを契機にして使徒たちが教会を築いたのです。聖霊降臨日が教会の誕生日と言われる所以です。

 この日に起こったことはそれだけではなかったのです。「言葉の回復」がそれでした。
旧約聖書の「バベルの塔」の物語には、当時の人々が言葉を乱用したために神の怒りを買ったことが書かれていますが、聖霊降臨日には言葉が本来のものに回復したのです。

 私たちの日々の生活を振り返るときに、言葉や情報というものを、ただ自分の生活や仕事、趣味や楽しみのためだけに使っていることに気づくのです。でも、それだけでは空しいのです。いつしか潤いを失い、ぎすぎすしたものになり、人を傷つけ、自分も傷を負うことに終わりかねないのです。

 言葉の回復。
 それは、言葉が本来神と共に、神のもとにあることを忘れないことです。「初めに言葉あった。言葉は神と共にあった」(ヨハネ1:1)とあるように、神の言葉を何にもまして大切にすることが言葉の回復につながるに違いありません。

 日曜日は一週間の始まりの日です。
 いや、一週間のいつの日でも良いのです。自分にとっての始まりの日に、神の言葉に出会う時を持ちたいものです。

 お近くの教会をぜひお訪ねください。きっと心から歓待されることでしょう。

2016.5.15 
日本福音ルーテル教会 
総会議長 立山忠浩

2016年3月27日日曜日

新しく生きるために


イエス・キリストの復活、死からのよみがえりを覚えるときとなりました。
教会は復活祭、イースターを迎えました。
イースターという呼び名は、クリスマスと同様に日本でもずいぶんと市民権を得て来たように見受けられます。
店頭には、うさぎやひよこなどのきらびやかな絵でラッピングされたチョコレートなどを見るようになりました。

しかし、イースターの意味はほとんど知られていないのが実情です。
たしかに、十字架の上で息を引き取ったあの主イエスが、再び新しい命を得、復活したという話はあまりにも非現実的で、たわごとのようにしか響かないことでしょう。
「そんな意味などどこかへ放ってしまえ」ということは、理解できないわけではありません。

しかし、やはりそれだけでは残念なことだと思います。
キリスト教が2000年の歴史を刻んで来たのは、この復活の意味を人々に知らせたかったからです。それほど重要なことなのです。

イエスはこう言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と。主の復活を信じるには、新しく生きる力が与えられ、これまでとは違う生きるべき道が示され、新しい生きる意味が与えられるのです。

お近くの教会をぜひお訪ねください。復活を喜ぶ讃美の歌声が聞こえて来ることでしょう。

日本福音ルーテル教会
総会議長 立山忠浩

2016年2月12日金曜日

十字架を偲ぶとき



教会の暦は「四旬節」に入りました。
この期間は、主イエス・キリストのご受難を覚えるときとなります。
福音書に記された十字架に至るまでの話を読み、そのご苦悩を偲ぶことも意義深いことでしょう。
罪なき神の子が、どうして犯罪人として扱われ、十字架で処刑されなければならなかったのか、その意味を見つけるのです。
 
それだけではありません。
人はそれぞれ自分の十字架を背負って生きていると言われます。
その十字架とは、放り出すことの出来ないものと言えるものです。
病気があり、障がいがある。また、いつかはだれもが衰えて行くものです。
突然の災難や災害に襲われて、体にも心にも重い傷を負うこともあることでしょう。
東日本大震災や原子力発電所事故はそれを見せつけたものでした。
 
イエス・キリストの十字架とは、ご自身の苦しみを背負われただけでなく、今を生きている私たちすべての人の苦悩や重荷という十字架をも背負ってくださっているに違いありません。

十字架を偲び、黙想する時を持ちましょう。
日々の喧騒から逃れ、教会の礼拝堂に身を置き、ご一緒に恵み多き四旬節を過ごして行きましょう。
どちらの教会でもお出かけください。

日本福音ルーテル教会
総会議長 立山忠浩

2016年1月8日金曜日

祝福に満ちた日々でありますように


 新年に入りました。今年一年も、皆さまにとりまして祝福に満ちた日々でありますように、お祈りいたします。
 
 教会は今、「顕現節」という季節を送っています。「顕現」とは聞き慣れないやや難しい言葉ですが、イエス・キリストがこの世に誕生して下さったことにより、神様のまことの思いやお姿が顕されたという意味です。私たちは神様を直接見たり、その声を聞くことはできませんが、イエス様の教えやご生涯を学ぶことで、神様の思いに触れることが出来るのです。
  
 私たちの周りを不安や恐れに満ちたことが取り囲んでいますが、それだからこそ益々神様の思いに目を向けることが大切であり、それが生きる力になると信じるのです。

 顕現節は2月上旬まで続きます。教会でご一緒に、恵み多い時を過ごして行きましょう。

日本福音ルーテル教会総会議長 
 立山忠浩